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● colla:J 冬2018 久保貞次郎と遠藤新

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10月27日 栃木県 真岡(もおか)市にて、久保 貞次郎(さだじろう)の23回忌にあわせたイベントが開催されました。コレクター、美術評論家、教育者といった様々な顔をもち、現代美術をリードした久保貞次郎は、昭和34年から跡見学園短大 生活芸術家にて、児童美術、美術鑑賞の講座をうけもち、沢山の学生たちをアートの世界にいざないました(昭和52年、学長に就任)。その教え子有志、橋本エミ子、川口真寿美、秀坂令子、藤沼秀子、綿貫令子(五十音順 敬称略)によって「久保貞次郎の会」が発足し、その催しの第1回として、真岡ツアーが企画されました。
参加者が最初に訪れた「久保講堂」は、久保貞次郎の依頼により、建築家 遠藤 新(あらた)によって設計されました。明治22年福島県に生まれた遠藤は、大正6年、帝国ホテル支配人 林 愛作の紹介で定刻ホテル設計スタッフとしてフランク・ロイド・ライトに師事。ライトの帰国後も、その影響を強く受け続けたといわれる建築家のひとりです。
F・L・ライトの研究家で建築家の井上拓一さんが久保講堂を解説してくださいました。竣工は昭和13年、当時49歳の遠藤は満州に事務所をもうけ、大陸と日本を行き来しながら自由学園や満州中央銀行倶楽部などを手がけていました。
久保講堂   久保貞次郎は祖父・久保六平の傘寿を記念して、真岡市尋常高等小学校へ2万円の寄付を申し出ます。その際、生徒を一堂に集められる大講堂が欲しいという校長の希望を開き、4万③全円(今の1億円ほど)の建設費全額を寄付。もともとは真岡城址の高台にある小学校敷地の西端にたてられ、東側に芝庭を設け校舎と2本の渡り廊下でつながっていました。一時は取り壊しが計画されましたが、市民の津陽要望で移築されました。
解し再構築した虹の作品で知られる靉嘔さんは1931年生まれ。1953年に瑛九たちが設立したデモクラート美術家協会に入会し、1955年、池田満寿夫、真鍋博たちと「実存者」を結成。1958年アメリカに渡り前衛芸術集団「フルクサス」に参加。1966年のヴェネツィア・ビエンナーレに久保貞次郎の推薦で出品し、以降、国際的な美術賞を次々と受賞します。靉嘔さんの一人娘・飯島花子さん、夫のクレイシ・ハールーンさんが同行しました。
児童画公開審査会はじまる  久保講堂の完成後、久保貞次郎は「児童画公開審査会」をひらく、新進気鋭の画家たちを審査員に招きました。行動は学校の行事だけでなく、市民の集会や講演、舞台、作品発表の場として毎日利用され、この日も絵画、写真、短歌、工芸などを展示した市民文化祭が開かれていました。
市民に長く愛された理由はキャパシティーだけでなく、自然光のよく入る明るい雰囲気や、優れた音響にあります。舞台奥の反響板をアール状に形成し、演者の声を理想的にヒビカセ、針一本落ちた音が最後列にまで届いたといわれます。また舞台前面に広い階段を設け、観客とのつながりを表現しているのも特徴です。
井上拓一さんによると、遠藤は吹き抜けの中央部を「平土間」、両脇にある天井の低い部分を「脇桟敷」と呼び、脇桟敷の床を一段高く設計することで、ステージを見やすくしています。2階ギャラリー(通略)の壁の中はトラス構造(木造)になっており、大きな染として屋根を支え、柱の少ない、大きな吹き抜け空間を実現させました。白い壁面にほどこした、細かい木材のモールが空間を引き締めます。
「地所が建築を教へて呉れる」といった遠藤。設計の下見のため真岡小学校を訪れると、校長や町長をおいて勝手に歩きまわり、敷地の外れの傾斜地を選び皆を驚かせたと久保貞次郎はは述懐しています。講堂が堂々と見え、校舎と一体になる最適の地を遠藤は選んだのです。
屋根に突き出た2本の塔は、高台から町を見下ろす展望台であり、通気を確保する換気塔の役割も果たしました。役所に図面を提出した際、その塔は子どもには危ないからいらないのでは?と問われた遠藤は「この塔はいります」と言い切ったそうです。
芦屋 旧山邑邸
芝庭に面したテラスには大谷石が敷かれ、2本の木の柱が並んでいます。 旧山邑邸 に使われた大谷石の柱にくらべ軽快な雰囲気。遠藤は講堂と庭、校舎のものと考えていました。
自由学園明日館  東京豊島区の自由学園 明日館(みょうにちかん)。遠藤新が自由学園創立者の羽仁吉一、もと子夫妻に来日中のF・L・ライトを紹介し、遠藤の実施設計により大正10年に建設されました。井上拓一さんによると、久保講堂のプランは「明日館講堂」。「自由学園女子部講堂」とよく似ている一方、明日館講堂は垂木構造、自由学園女子部講堂は和小屋、久保講堂はキングポストトラス+和小屋と、規模に合わせて構造を変えているそうです。
背の高い窓を設けた北側は「特別室」になっています。
大正8年に始まった帝国ホテルの建設は、大正11年8月にライトが帰国してしまったため、遠藤を中心とした日本人スタッフによって、大正12年に7月に竣工します。完成披露会当日の9月1日には関東大震災に見舞われますが、館内にいた遠藤は絶対に倒れない自信を持ち、外へ逃げなかったと言われます。
震災直後から遠藤はバラック建築の建設に奔走し、賛育会産院・乳児院をはじめ病院やホテル、飲食店、マーケットなど次々と設計を手がけました。また大正11年には、犬養毅邸(東京信濃町)を設計しています。
久保講堂の北側は、全面ガラス張り。2階ギャラリーの採光窓から自然光を採り込んでいます。
終戦後、満州からひかげた遠藤は、心臓病で体調を崩しながらも、新しい学校建設に邁進します。文部省の協議会員として数々の提言を行い、秋田の十文字中学校、岩谷東光中学校、宮城の若柳中学校、新潟の長岡中学校などを竣工させます。
61歳の遠藤は体調を悪化させ入院。急逝を知りかけつけた久保貞次郎は、上野駅の郵便局からF・L・ライトにあて「Arata Endo passed June 29th」の電報を打ちました。
久保家の菩提寺「長蓮寺」
永仁5年(1297)の開山とつたわる歴史ある寺院「長蓮寺」。久保家に隣接した、久保貞次郎の墓所でもあります。
参加者が揃い、23回忌を迎えた久保貞次郎の墓所を参りました。明治42年(1909)、足利市の小此木(おこのぎ)家に生まれた貞次郎は、英語、ドイツ語など語学力にたけた少年で、昭和3年(1928)日本エスペラント学会に入会。昭和8年、東京帝国大学文学部教育学科卒業後、真岡の大地主で銀行業を営む久保家の佳代子さんと結婚。昭和10年には第2回日米学生会議のため渡米し、帰国後、知人に紹介された遠藤新の設計で、東京牛込に自邸を建てます。
久保記念観光文化交流館
久保家の建物は現在、真岡市の「久保記念観光文化交流館」として公開されています。母屋はかつて日銀の支店として使われた建物で、2階には久保貞次郎の書斎があり、1階の客間には芸術家や教え子たちが集いました。その他にも大正12年に建てられた大谷石の米蔵や、明治12年造のなまこ壁の土蔵などが並びます。
久保貞次郎邸と芸術家との交友は昭和10年、エスペラント学会の九州特派員として九州各地をまわり、宮崎で瑛九(杉田秀夫)に出会ったことから始まります。昭和13年には羽仁五郎の提案で、竣工した久保講堂の記念事業として「児童画公開審査会がひらかれ、瑛九、北川民次、オノサト・トシノブたちを巻き込んだ恒例行事となりました。
久保講堂完成の数ヵ月後、久保貞次郎は実弟の小此木眞三郎、義弟の久保汎をつれて、児童画と美術研究のため北米・欧州へ出発。旅の途上、遠藤が「おやじ」と呼び敬愛するF・L・ライトのタリエッセンを訪問します。渡米前、久保貞次郎は遠藤に対して「費用を負担するので同行して欲しい」と頼みましたが、体調不良で遠藤のタリエッセン再訪はかないませんでした。タリエッセンで数日過ごすうち、遠藤がライトから息子のように愛されていることを感じ胸をつかれます。
彼は東洋に於いて、自分の最高の後継者だ。彼は事前の姿勢の建築家だ。自分は彼に多くの事を教えた。しかしその後私も進歩した。二十年間に学びとったものを、是非遠藤さんに傅えて死にたいと。私は胸がつまるような気がした。アメリカ、いや世界の建築の巨人と呼ばれるこのライトからこれ程の、愛情と信頼と期待とを受けている、わが遠藤新を、日本にもつことを考えてみて。
(久保貞次郎著 輝く肩 ダリエッセンの巨匠 フランク・ロイド・ライト 「みづゑ」 1940年3月号より)
久保邸の階段、蝋か、屋根裏には本や絵画が積みあけられ、軽井沢の別荘も本で埋め尽くされていたそうです。神田で一度300枚の本を買うこともありました。
絵を買うという革命
2013年、真岡市は久保貞次郎の遺族から版画など美術品1500点(作家数89名)、書簡、写真、原稿、書籍など膨大な書類の寄贈を受け、「久保アトリエ」と呼ばれていた大谷石の石蔵で作品を展示しています。久保貞次郎は昭和30年頃から、作品を買うことで作家を支える「小コレクター運動」を起こし、美術品の頒布会やオークションを開催。異なる作家の作品3点を買うことを目標としました。また版画の版元となり制作資金や設備を提供して、瑛九、北川民次、靉嘔、池田満寿夫、オノサト・トシノブなど多くの作家を世に知らしめます。
靉嘔さんはとうにを振り返り「コレクターにとってどの作品を購入するかは自己表現のひとつです。まだ評価されていない絵を買ってくれる人を僕は尊敬する。身銭を切って欲しい絵を買うのは凄いこと。その人にとって心の革命を起こすことです」と語ります。
久保貞次郎は昭和14年、米欧旅行や審査会をつうじて集めた児童画を公開する「世界児童画名作展」を全国で開催。昭和27年には新しい美術教育の並及を目指し「創造美育協会(創美)」を設立します。久保貞次郎は創造的な児童画の特徴として「概念的でない」「確固として自信にあふれている」「いきいきと躍動的」「新鮮・自由、追力がある」「明るい幸福な感情にあふれている」ことをあげています。創美の美術教育は画家の育成ではなく、自由な自己表現を認め、生まれ持った創造力を伸ばすことを目的にしました。毎年夏には全国から美術教育や保育士を集めた「セミナール」を開催し、教育者、理解者を育てるため跡見学園短期大学の教授をつとめ学長にも就任しました。
瑛九、靉嘔、池田満寿夫、泉茂など、デモクラート美術家協会に参加した作家たちの作品が展示されています。
文流館のレストラン「トラットリア ココロ」にて、参加者がテーブルを囲みました。参加者同士が自己紹介したあと「久保貞次郎の会」メンバーたちが、跡見学園短大の講義で行われていた版画頒布会を再現しました。これは自分の好きな版画に手をあげ、くじ引きで落礼者を決めるもので、久保貞次郎は数百円~数千円という破格の安値でコレクションを提供し「作品を購入し、身近に置くことの大切さ」を訴え続けました。久保貞次郎は芸術の真価について、次の言葉を残しています。
現代の芸術家たちは、公衆を代表して人間の心の探求者でなければならない。日本のあいまいな、不明確な、妥協的な精神に反逆して、もっとはっきりと、もっとはげしく摩擦をおこさないで、ひとびとの旨をうつ新しい芸術を生み出すことがどうしてできるであろう。(中略)
芸術はひとびとの一日の労働の疲れをいやすだけのためにあるのではない。ぼくたちが現代社会の卑俗なマス・コミュニケーションで無気力になり、見失っている人間の生命力を、もう一度とりもどそうと、一方件名努力する芸術家の精神の断面を示すものこそ、芸術というものである。
(久保貞次郎 美術の世界11「絵画の真贋」から)

● 久保貞次郎と瀧口修造

『瀧口修造の詩による版画集 スフィンクス』1954
稀代のコレクターであった久保貞次郎先生はとくに版画のコレクション、さらには版元として多くの版画作品の誕生に携わりました。なかでも瀧口修造の詩による版画集『スフィンクス』の刊行は日本の近現代美術史に残る美しい詩画集でした。1954年に限定50部刊行さた  『スフィンクス』は 瀧口修造の1930年代の詩に、北川民次瑛九泉茂、加藤正、利根山光人、青原俊子(内間)の6名の版画を組み合わせたもので、奥付に<アイデア久保貞次郎・編集福島辰夫>とありますが、久保先生が実質的な版元で、制作の実務を福島さんが担当されたようです。 詳しい内容と、画像は下記をご参照ください。 http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/53052257.html